河野裕子(かわの ゆうこ) ―歌人

1946 年7 月24 日 – 2010 年8 月12 日
熊本県上益城郡御船町に生まれ。滋賀県石部町(現湖南市) で育つ。京都女子高等学校を経て京都女子大学文学部国文科卒業。
高校時代より作歌活動をはじめ、大学3 回生(23 歳) で角川短歌賞受賞。宮柊二に師事する。みずみずしい青春の恋愛歌を収め、
新鮮な言葉で女性の心をのびやかにうたった第1 歌集『森のやうに獣のやうに』でデビュー。感覚と身体性を総動員して生の実感を表
現する作風で、戦後の女性短歌のトップランナーとされる。
< 室生寺>
「梅の幹にしづかに古い杉枝の影が射しいる宇陀室生寺の道」
< 鎧坂を登る>
「あと少し生きてでき得るを数へつつ一段のぼりて休みてはのぼる」
< 金堂の前に立つ>
「みほとけに縋りてはならずみほとけは祈るものなりひとり徒歩来(かちこ) し」
「この世の願ひをほとけに請はず千年を佇ちつづけ来し足首太し」
「半眼のままに内陣に佇ちつづけ金堂の外光を知らぬみほとけ」
< 室生寺への再来>
「この寺に来ることはもうできず水音の室生川の橋ふり向かず渡る」
「鳩鳴けば父よと思ひ鳩鳴けば母よと思ふ宇陀村の坂」
『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 より抜粋。

澤田ふじ子(さわだ ふじこ ) ―作家、時代小説家

1946 年 愛知県半田市生まれ。京都市在住。愛知県立女子大学(現・愛知県立大学) 卒業後、高校教師、西陣織工等の勤めを経
て、1973 年作家デビュー。時代小説を中心に発表。
「―女人高野」
「なんと美しい響きを持つ名前だろう。
わたくしはそんな別名を持つ< 室生寺> の門前に立っているのである。」 
『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 より抜粋。

白洲雅子(しらす まさこ) ―随筆家

1910 年(明治43 年) 1 月7 日 – 1998 年(平成10 年) 12 月26 日
樺山伯爵家の次女として、東京に生まれる。小林秀雄や青山二郎など一流の文化人と交流しながら、日本文化全般に関する随筆を執
筆。能の世界と生涯を通じて向き合った姿勢に、様々な美を見抜く眼の根源があったとされる(白洲正子の愛した近江より抜粋)。
「この社は、寺の前の室生川を東へのぼった所に建っているが、雲つくような杉木立は、見るからに神秘的な印象を与える。拝殿の後は、
神体山となっており、その山中に、龍穴の祠がある。私が行ったのはずいぶん前のことだが、あの辺は今も変わってはいないとおもう。」
『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 より抜粋。

阿川弘之(あがわ ひろゆき) ―小説家、評論家

1920 年(大正9 年) 12 月24 日 – 2015 年(平成27 年) 8 月3 日
広島市白島九軒町土手通り(現中区白島九軒町) 生まれ。広島県名誉県民、日本芸術院会員、日本李登輝友の会名誉会長を務め
る。文化勲章受章。代表作:『春の城』『雲の墓標』のほか、大日本帝国海軍提督を描いた3 部作『山本五十六』『米内光政』『井上成美』
「本来ここは大師信仰の土地である。「女人高野」といって、女人禁制の高野山に対し女のお参りの許されてゐた密教の寺であり、一
つの山を超えた伊賀国から大勢人が訪れるので「伊賀大師」と呼ばれてゐた。唐の国長安の都で修行を了へた弘法大師こと空海上人
は、日本へ帰る船の中から、「この玉、我が信仰の基となるべき地に落ちよ」と携えてきた一つの玉を空へ投げた。それの落ちたところ
が、室生寺境内の如意山であった。(阿川弘之『室生寺ふたたび』)」
『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 より抜粋。

千代國一(ちよ くにいち) ―歌人

1916 年1 月30 日 – 2011 年8 月29 日
新潟県生まれ。大倉高等商業学校(現・東京経済大学) 卒業。歌誌『国民文学』にて松村英一に師事し、師の没後は主宰を継承。
1952 年: 歌集『鳥の棲む樹』で第1 回新歌人会賞。1966 年: 歌集『冷気湖』が第9 回日本歌人クラブ推薦歌集(現・日本歌人ク
ラブ賞) に選出。1999 年: 歌集『水草の川』で第7 回短歌新聞社賞。
「石の標女子高野とあな優し白壁つづき杉の木の影」
『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 より抜粋。

会津八一(あいづ やいち) ―歌人、美術史家、書家、雅号: 秋艸道人、渾斎

1881 年8 月1 日 – 1956 年11 月21 日
新潟県新潟市古町通五番町に生まれ。1900 年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校) 卒業。東京専門学校(早稲田大学の
前身校) に入学。この頃すでに「東北日報」の俳句選者となる。卒業後は、私立有恒学舎(現: 新潟県立有恒高等学校) の英語
教員となって新潟に戻り、多くの俳句・俳論を残す。その後、奈良の仏教美術へ関心を持ち、奈良への数々の短歌を残している。
「ささやかに にぬり の たふ の たち すます このま に あそぶ やまざと の ころ」
『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 より抜粋。

市村八洲彦(いちむらやすひこ)-歌人

1933 年7 月3 日~ 昭和期。
「石楠花の固きつぼみもぬらしつつ女人高野の雨の階(きざはし)」
『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 より抜粋。

岡部伊都子(おかべ いつこ) ―随筆家

1923 年3 月6 日 – 2008 年4 月29 日
大阪府大阪市生まれ、育つ。相愛高等女学校を病気のため中退。婚約者が沖縄戦で戦死し、戦後すぐ結婚したが7 年後に離婚。
同人誌『文学室』に参加。1954 年「おむすびの味」(56 年)。主要著作は岩波書店より『岡部伊都子集』(全5 巻)、藤原書店より
『岡部伊都子作品選・美と巡礼』(全6 巻)、落合恵子や佐高信など愛読者が多いとされる。
「室生寺の石仏にも、奥の院へあがる横など、ごろごろ目鼻もわからずにころがっているものもあるが、この潅頂堂前庭(注・実際は金
堂の右手) にある軍荼利明王というのはよくのこっている。いっさいの阿修羅悪鬼を折伏(しゃくぶく) する忿怒(ふんぬ) 像だが、こ
の忿怒のお顔は、眉も目も逆だてて、あるで権高な女の怒り顔みたいだ。(岡部伊都子『同右』)」
『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 より抜粋。

土門拳(どもん けん)-写真家

1909 年10 月25 日 – 1990 年9 月15 日
山形県飽海郡酒田町(現・酒田市相生町) 生まれ。1916年に東京に移住。報道写真の基盤をもとに土門拳は、その後、日本でも
有数のリアリズム写真家として活躍。対象物を明確に正確に描写するほうがより挑戦的であると捉えていた。
「実物がそこにあるから、実物をもう何度も見ているから、写真はいらないと云われる写真では、情けない。
実物がそこにあっても、実物を何度見ていても、実物以上に実物であり、何度も見た以上に見せてくれる写真が、本物の写真というも
のである。写真は肉眼を越える。それは写真家個人の感覚とか、教養とかにかかわらない機械(メカニズム) というもっとも絶対的な、
非情なものにかかわる。時に本質的なものをえぐり、時に瑣末的なものにかかずらおうとも、機械そのものとしては、無差別、平等なは
たらきにすぎない。そこがおもしろいのである。写真家は、機械のうしろに、小さく小さくなっている。写真家が小さくなって、ついにゼ
ロになることは、なかなかむずかしい。せいぜいシャッターを切るとき、あっちの方を眺めるぐらいなものだ。写真の中でも、ねらった通
りにピッタリ撮れた写真は、一番つまらない。「なんて間がいいんでしょう」という写真になる。そこがむずかしいのである。(土門拳公式
HPより抜粋)」
「…今は亡くなった室生寺の住職荒木良仙老師と書院で語り合ったときのこと、「老師は長年ここに住んでおられて、春夏秋冬のうち、
いつの室生寺が一番美しいと思いますか」と聞いたことがある。「梅の室生寺、桜の室生寺、青葉の室生寺、石楠花の室生寺、もみ
じの室生寺、冬枯れの室生寺、みなそれぞれに美しいと申し上げるより他はないが、強いてわしの好みをいえば、全山白皚々(はく
がいがい) たる雪の室生寺が第一等であると思う。(中略)」と答えられた。いわれてみれば、なるほどと思いあたるふしはあったが、
残念なことに、ぼくも雪の室生寺は知らない(土門拳『ぼくの古寺巡礼』)。」
『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 より抜粋。

五木寛之(いつきひろゆき) ―小説家、随筆家、作詞家

1932 年9 月30 日 –
第2 次世界大戦終戦を平壌中学1 年で迎え, 1947 年帰国。福岡の高校を卒業。早稲田大学露文科を未納のため、抹籍となり、後
に未納分を納付し中退となる。業界紙編集、広告代理店勤務、コマーシャルソングの作詞数多くの作品を手掛ける。ソ連や北欧を訪れ,
その見聞をもとにした『さらばモスクワ愚連隊』 (1966) で注目される。
「…彼はそれから何度も室生寺を訪れたが、雪景色の室生寺だけではどうしても撮れずにいたらしい。昭和五十三年の冬も室生寺を訪
れたが、やはり雪は降らなかった。もう一日だけ、と言って滞在を延ばしたその翌朝、玄関を開けると一面の雪だったそうだ。初代さん
は思わず寝間着のまま、「先生、雪!」と叫んで土門拳に知らせたという。彼は「とうとう降ったね」というと、彼女の両手を握って涙を
ぽろぽろ流した(五木寛之 『百寺巡礼』)。」
『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 より抜粋。

北沢郁子(きたさわ いくこ) ―歌人

1923 年8 月22 日-
長野県で生まれ、育つ。松本高等女学校(現・長野県松本蟻ヶ崎高等学校)卒業。1948 年:歌誌『古今』に参加、福田栄一に師事する。
1960 年: 森村浅香らと同人誌『藍』を創刊、発行人となる。1984 年: 歌集『塵沙』で第9 回現代短歌女流賞受賞。2014 年: 歌集
『道』で第48 回迢空賞候補。
「室生寺の釈迦如来像ひるがへる衣文にせせらぎの音ききにけり」
『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 より抜粋。

蔵田 敏明(くらた としあき) ―教授、執筆家

1954年、広島県生まれ。学歴: 大谷大学大学院修士課程修了職歴: 京都市立高等学校教諭、愛知女子短期大学助教授、名古屋
外国語大学教授。
「室生寺 文学散歩―神韻渺茫(びょうぼう) たる山峡の景観、わたくしは長谷川等伯筆の「松林図」をなんとなく思い出した。太古、
日本の神々たちはこんな幽邃(ゆうすい) のなかで生まれ、野に下りていった。そうして、いまなおわたくしたちの内に息づいているの
だと思わないわけにはいかなかった。」
『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 より抜粋。

三好 和義(みよし かずよし) ―写真家

1958 年11 月8 日 –
徳島県徳島市に生まれ、育つ。徳島県立城北高等学校、東海大学文学部広報学科卒業。楽園をテーマに数々の楽園写真を残す。
「室生寺の特徴は山の斜面にお堂が点在しており、絵になるところが重なるように連続してあるところです。たとえば有名な五重塔も石段
を一歩一歩上がっていくと、歩くたびにその表情を変え、上から見るとそんなに大きくないのに杉木立に囲まれた塔を間近から見上げる
と大きいなと驚きます。」
『和樂 2014 年 09 月号』(2014) 小学館:隔月刊版の「室生寺はなぜ写真家たちの心をとらえるのでしょうか」三好 和義の言葉より抜粋。

真言宗室生寺派 大本山室生寺 総務 山岡淳雄

昭和56年生まれ 平成16年度種智院大学卒業 卒業後、三重県名張市にある有限会社深山運送に入社
平成22年有限会社深山産業の課長就任その後平成24年2月に退社
平成24年3月真言宗室生寺派大本山室生寺の僧侶として勤める。

・室生寺について
私が幼い頃に父親が室生寺に勤めており約6年間、室生寺にお世話になりました。この地から引っ越しをしたのが小学校5年生の頃、それから色々な人生を経験しましたが、平成23年9月に父親が遷化し、翌年の平成24年3月には室生寺に勤める事となりました。

勤め出したある日、時の鐘をつきました。私は幼い頃、毎日のように時の鐘をついており、懐かしく感じていました。

約20年立っても変わらない鐘の音色を聞いた私は目頭が熱くなり、これは亡き父、又はお大師様、どちらかわかりませんが私はきっとここに導かれたのではないかと思い、これからこの歴史のある寺を支えていき、これからの世代へ良き寺のまま繋いで行くのが私の勤めなのかもしれないと感じました。

室生寺は故郷の様な所であります。これはたくさんの仏様や境内の雰囲気がそうさせているのかもしれません。きっと故郷の様に感じているのは私だけではないのでしょうか。

現在はインターネットや写真で簡単に見れる世の中ですが実際この地に来て、この雰囲気を肌で感じて頂きたいと思います。

橋本 沙也加―編集後記

1988年 滋賀県大津市生まれ。日本文化や町を大切にした H A K U T A I として活動するクリエイティブチームの代表。
多くの文化人を魅了する室生寺。室生の大自然 と 室生寺は、月日の中でその美しさを年輪のように重ねてきたのではないだろうか。
度重なるその美しさは、室生寺に直接足を運ばなくては、感じることはできない。女人高野…室生寺の山岡浩住職は、「女人高野であ
ることの所以は、室生寺の細部から女人高野であったことを感じていただくことができると確信しています。」とする。確かに、言葉には
できないが、女人高野であった室生寺の軌跡をその場で私も感じることができた。
ここにあげた言葉の数々は、『古都巡礼奈良6室生寺』(2009) 綱代智等、河野裕子 淡交社の「室生寺 文学散歩(蔵田 敏明)」 
より抜粋し、蔵田 敏明先生がおまとめになったものを紹介させていただいた。数々の文化人が残されたものは、室生寺と人々との絆の
ように感じたからである。その言葉の輝きから、室生寺がどれだけ人々に愛されてきたのかを皆さんと共有させていただきたい。